東大門(トンデムン)から乙支路(ウルチロ)6街に向かう城壁の下、清渓(チョンゲ)6街にあった虹霓門(ホンイェムン:アーチの曲線が虹の形の門)で、アーチが五つあったことから「五間水橋(オガンスギョ)」または「五間水門(オガンスムン)」という。この橋は清渓川(チョンゲチョン)の水が都城を抜けていく地点に架けられていた。つまり、ソウルに城郭を築造する際、清渓川の水がうまく流れるよう五つのアーチ形の穴を作り、その上に城郭を築造し、アーチ形の穴を繋げて城壁の内側に長台石を連結して橋を架けた。
この五間水門は水の流れ仮設されたもので、朝鮮時代には都城の中で罪を犯した者が都城を抜け出して逃げたり、あるいは夜中に密かに都城の中にしのび込む者の通路としてよくここを利用したという話がある。その一例として、朝鮮王朝第13代王の明宗(ミョンジョン)の時代に全国的に社会を乱した林巨正(イム・コクチョン)の輩が都城に忍び込み、典獄署(朝鮮時代に獄囚を管轄する官庁)を壊して逃げだす時も、この五間水門を通って逃げ出した。
この橋は、1907年に日本が清渓川の水がよく流れるようにするという口実のもと、五間水門を壊した際に一緒に無くなり、コンクリートの橋が架けられた後、城郭の棄損とともに影をひそめたが、清渓川復元事業の際、元の姿に復元された。 |