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ソウルが朝鮮の首都と定まる前、清渓川(チョンゲチョン)は自然な状態のままの川であった。四方が山に囲まれているソウルの地理的特性上、相対的に地盤が低い都の真ん中に必然的に水路が生じた。従って朝鮮王朝が川を整備する以前、既に自然に水路が形成されていた。ソウルの気候は季節風の影響で春・秋は乾燥し、夏は高温多湿であった。そのため、清渓川は雨の少ない春と秋は大部分が乾いた状態である反面、夏の雨季には雨が少し降っただけでも水が溢れて洪水になる程、乾季と雨季によって流量の変化が甚だしかった。
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その上、清渓川は都心の中央に位置しており、周りには商店と民家が密接していたため、大雨が降って水が溢れると家屋が浸水したり、橋が流失したり、また溺死者が発生したりといったことがよく起こった。
それ故に朝鮮時代初期、都の建設事業と並んで下水を造ることは非常に重要な事業であった。清渓川の整備が本格的に始まったのは朝鮮第3代王の太宗(テジョン)の時代からである。太宗は1406年から1407年まで、自然の状態にあった川底を広げ、堤防を築くなどして、数回に渡る整備で河川を造り上げていった。しかし、これは完全な工事ではなかったため、大雨が降る度に被害が続いた。
結局1411年、川を造り直す為の臨時機構である「開渠都監」を設置し、翌年の1412年1月15日から2月15日まで、52,800人を投入し大々的な工事を実施した。主に川の両岸に石を積み上げて広通橋(クァントンギョ)・恵政橋(へジョンギョ)などの石橋を造った。「開川(ゲチョン)」という言葉は「川を掘る」という意味で、自然状態の河川を整備する土木工事を表すものであったが、この時の工事をきっかけに、当時、「開川」という単語が今の「清渓川」を指す固有名詞になった。
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太宗の時代、開川工事が主に開川本流の整備であったとするなら、朝鮮第4代王の世宗(セジョン)は大小の支流の整備に多くの力を傾けた。支流の水が一度に開川の上流に押し寄せて溢れるという状況を防ぐことにより、都心の洪水を予防することができたのである。
1441年には馬前橋(マジョンギョ)の西側の水中に標石を建てた。この標石は尺•寸•分 など目盛りが刻まれており、それによって水位が測定できた。これを「水標(スピョ)」という。水標は開川の水位を計数化し測定することにより事前に洪水を防ぐのに役立った。
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世宗の時代に注目すべき事柄として、清渓川の役割を都心の下水道と規定したことである。ソウルを朝鮮の首都に定める折、風水学上でソウルを取り囲んでいる‘外水’の漢江(ハンガン)が東から流れているのに対し、都の中央を流れる‘内水’の清渓川が漢江とは反対に西から流れているという点が大きく考慮された。しかし、人が大勢住んでいる都の真ん中に位置しており、今日のような下水道がなかった当時としては清渓川にあらゆるごみや汚物などが流れて来るのが現実であった。
従って清渓川の役割において、風水学上の重要な水としていつもきれいに維持しなければならないという名分論的な主張と、都城には多くの人が住んでいて汚物が沢山発生するのでこれを排出する河川がなくてはならないという現実的な主張が対立していた。この論争で世宗が後者の主張を認め、清渓川は生活河川に決定された。これにより清渓川は朝鮮王朝500年の間、多くの生活ごみを洗い流す下水道としての機能を果たし、街全体をきれいに維持することができたのである。
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