広通橋(クァントンギョ)は現在の瑞麟洞(ソリンドン)124番地付近(普信閣がある鐘路の交差点から乙支路の交差点の方に進んでいく途中の清渓路と交差する所)にあった橋だが、昔、広通房にある大きな橋だったので、初めは「大広通橋(デクファントンギョ)」と呼ばれた。当時、この橋はソウルで最も大きな橋として知られており、小正月になると都城の多くの男女がここに集まり、踏橋(タプキョ)遊びをした所として知られている。『世宗実録地理志』に「北広通橋」、『新増東国輿地勝覧』の「大広通橋」、『都城地図』の「広通橋」、首善全図の「大広橋」など、それぞれ異なる名前が記録されており、少しの違いはあるものの、いずれも同じ橋を指す名称であり日常的に「大広橋」あるいは「広橋(クァンギョ)」と呼ばれてきた
この橋に置かれている石は、朝鮮王朝を開いた太祖・李成桂(イ・ソンゲ)の継妃である姜氏のお墓を貞洞から城北区の貞陵洞に移し、当初墓に使った石を橋の建設に使った。王妃のお墓に用いられた石を橋の建設に使うということはありえないことであるが、朝鮮時代初期の政治状況を見ると理解できないこともない。すなわち、李成桂が自分の王位を姜氏の産みの子である芳碩に譲ろうとしたため、前妻の産みの子である李芳遠が乱を起こし、鄭道傳と芳碩を殺害する王子の乱が起こった。その後、政権を握った李芳遠が自分の継母である姜氏のお墓を移す過程で、お墓に使われた石を橋に移しておいたのである。当時、李芳遠の姜氏に対する憎しみのほどが把握できる内容である。
方、橋を中心に、周辺には鶏や卵を売る店、竹を売る店、笠を売る店、髪飾りを売る店、女性の装身具や指輪などを売る店、靴屋、絵の具や中国の果実を売る店、漆器とたん笥を売る店、宴の時に器をレンタルする店、八百屋、綿を売る店、雑貨店、鞍・アブミ・くびきなどを売る店、書画や本を売る店など、数々の店が立ち並び、商業の中心地としての役割を果たした。そして、常に多くの人々が広通橋の周りに集まり、生活必需品を買い求めた。
広通橋には非常に精巧な雲柄や唐草柄、そして真ん中に両手を合掌して頭に笠をかぶった神将像を刻んだ石が置かれている。 |