貫鉄洞(クァンチョルドン)と長橋洞(ジャンギョドン)を結ぶ橋。この橋の近くに「ジャンチャッゴル」と呼ばれる村があったとのことで、この近所では「ジャンチャッゴル橋」と呼んだりした。しかし、原名は「長通橋(ジャントンギョ)」あるいは「長橋(ジャンギョ)」と呼んだ。この辺りが朝鮮時代の長通坊であったことから付けられた名前であり、この橋の近くに長い倉庫が立ち並んでいたので「長倉橋(ジャンチャンギョ)」と呼ばれたり、「ジャンチャッゴル橋」とも呼ばれた。
橋の西の橋脚に「辛未改造」と「己亥改造」という8文字が刻まれていることから、2回にわたる補修工事が行われたことが分かる。南山(ナムサン)から北へ流れる倉洞川(チャンドンチョン)と会賢洞(フェヒョンドン)を通って流れる水が小広通橋で合流し、さらに南山の東川(ドンチョン)を流れる水と合流、この橋の手前で清渓川と合流する。したがって、長通橋を中心に西の方には三角州を成して広い地勢を形成している。この一帯は、早くから都城の中の商業の中心地となり、商人らが集まって住んだ所である。中央と地方官庁の連絡事務を行う京主人の本拠地であった。さらに、19世紀の中流人として開化の波に能動的に対処しながら先覚者的役割を果たした劉大致(ユ・デチ)が今の普信閣(ボシンガク)の裏手に住んでいた。
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