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   日帝時代の清渓川は様々な面で以前とは異なった変化を遂げた。何よりもまず、朝鮮王朝500年間使用されてきた「開川」という名称の替わりに「清渓川」という新たな名称で呼ばれ始めた。清渓川と呼ばれ始めた時期は定かではないが1914年、日帝により朝鮮の河川名が整理される際に改定されたものと思われる。当時の新聞を見てみると、1916年頃からは「開川」という名称はほとんど登場せず、代わりに「清渓川」という名前で出ている。朝鮮時代、北村と南村の境界であった清渓川は日帝時代には「民族の街、鐘路」と「日本人の村、本町」を分ける境界線となった。


   清渓川は以後約100年あまり放置されたままとなった。日本は清渓川をその名に劣る「濁溪川(汚い水が流れる川)」といって嘲笑した。500年の間ソウルの人々の生活と共に流れてきた清渓川は一朝にして汚い下水溝に成り下がり、清算の対象となった。

   日本が清渓川の整備を始めたのは1918年頃からで、ソウルで清渓川の持つ象徴性や保健・衛生などソウルの人々の生活における重要性を認めたからではなく、朝鮮総督府をはじめとした朝鮮植民地支配の中枢機関を清渓川より北へ移転させる為の事前整備作業の一環として始めたのである。

   1920年以降日帝は数回に渡り清渓川覆蓋計画を発表した。1926年には清渓川を埋め立て1万坪の宅地を造成するという計画を、1935年には清渓川の全体を埋め立てて道路を造り、その上に高架鉄道を建設するという計画を発表した。1939年、清渓川を覆って自動車専用道路を造るという案が出され、1940年には 清渓川を埋めて上は電車、下は地下鉄を敷くという計画を発表した。このような清渓川覆蓋構想は日本の植民地政府が満州事変・日中戦争・太平洋戦争へと激化し、朝鮮への支配をより確実にし、ソウルを大陸の兵站基地にするためであった。しかし、これらの計画は財政問題により構想にとどまり、実際に覆蓋されたのは1937年、太平路(テピョンノ)~武橋洞(ムギョドン)区間だった。


   一方、日本の清渓川整備により清渓川に架かっていた多くの橋は受難に遭った。広通橋(クァントン)の場合、橋の横に電車の線路が敷かれることになり、橋はコンクリートで補強・拡大された。広通橋下の橋柱には直径1m以上の下水管が埋められることになった。五間水門(オガンスムン)は1908年に完全に壊され、代わりに車道と電車線路兼用の橋が架けられた。 河浪橋(ハランギョ)・永渡橋(ヨンドギョ)など一部の橋は近代式コンクリート製の橋に改築された。



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