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   1945年頃の清渓川には土砂とごみが河川底を覆っており、川辺に沿って乱立している仮小屋と、そこから溢れ出る汚水でかなり汚染されていた。その上、韓国戦争後に生計を立てるためソウルに集まってきた避難民の多くが清渓川沿いに定着するようになった。彼らは、半分は陸に、もう半分は水に浮く仮小屋を建てて暮らした。川辺に沿って無秩序に形成された仮小屋の集落と、ここから溢れ出る生活排水で清渓川は急速に汚染されていった。おびただしい量の下水が都心を流れ、その悪臭で周辺の住民は酷い被害を受け、都市全体のイメージも大きく損なった。当時、韓国の経済状況の中で清渓川問題を解決する最も簡単で唯一の方法が清渓川の覆蓋であった。


   清渓川は1955年に広通橋(クァントンギョ)上流約136m区間をはじめ1958年から本格的に覆蓋が始まった。また、広橋(クァンギョ)から馬場洞(マジャンドン)に至る全長5,6km・幅16mの清渓高架道路の建設が1967年8月15日に着工、1971年8月15日に完工した。清渓川周辺の仮小屋は壊され、代わりに現代様式の商店街が建ち、汚水が流れていた河川はきれいに整えられたアスファルトの道路に生まれ変わった。その上に建設された高架道路には自動車が勢いよく走った。

   高架道路が建設された後、周辺は都心産業の中心地として道路の両側に工具屋、電気屋、靴屋、衣料品店、古本屋などいろいろな商店が密接し、多くの人が行きし、また道路には一日に数十万台の車が往来した。

   そのうちに清渓川周辺はだんだんソウルで最も複雑で騒がしい所の代名詞となっていった。ただ清渓川ほど、去る50年の間ソウルの歴史を明白に、色濃く映し出している所はない。 1950年代末、ごみと汚水でいっぱいの不潔と貧困の象徴だったのが、60•70年代は成功した産業化、近代化として象徴され、80•90年代は都心産業の中心地であると同時に騒音、混雑、煤煙などで都市発展の妨げとなった。



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