back logo sitemap korea eng ch_a ch_b jpa img

 
   世宗以降、川の整備に最も力を注いだのが朝鮮第21代王の英祖(ヨンジョ)である。英祖は自身の行った下水整備を古代中国国家「夏」の禹王の治水や随の煬帝の運河整備と比較し、自身の最も大きな治績のうちの一つと掲げたほどであった。

   太宗、世宗の時代に造成された川はその後、英祖が即位するまでの約50年余りの間、特に変化は見られなかった。雨が降って水が溢れ、周辺の民家が浸水し、橋が流失するなどの事故が起きたが、よくあることだった。これといって注目すべき変化が見られなかったのは、何よりも太宗、世宗の時代に整備した川の下水処理の容量が、当時の都の人口十万人の流す下水を処理するのに特別な問題がなかったからでもあった。


   しかし17~18世紀には事情が大きく変わってしまった。まず、壬辰倭乱(文禄の役)と丙子胡乱の2度の戦乱を経た後、多くの流民が押し寄せてきたためソウルの人口が急増した。1657年に約8万人余りだったソウルの人口が、10年後の1669年には19万人に膨れ上がった。人口急増により生活排水は川が持ち堪えられない程大きく増加した。そのうえ流民が生計の為に川辺に野菜畑を作り、水路が詰って排水にも多大な影響を及ぼした。

  また、17~18世紀には異常気象が続き、寒さを凌ぐために人々が見境なく木を切り、燃料として使った。これにより都城周辺の山は殆どが禿山になってしまい、雨が少し降っただけでも土砂崩れが発生し、川が埋まってしまった。このため英祖が即位して間もない1725年頃には土砂が積もって川底が平地と同じ高さになり、河川整備が避けられない状況となった。
   河川整備に先立って英祖は数回に渡り、その施工の賛否について朝廷の官吏と民たちに尋ねた後、1759年10月、河川整備を管理する機関「濬川司」を設置した。1760年2月18日、整備工事が始まり、この時は計8区間に分けて進められた。開川に分厚く積もっている土砂をかき集めて、開川の深さと幅を以前のような姿に取り戻した。壊れた橋を補修し、上流及び支流はもとより景福宮(キョンボックン)・慶熙宮(キョンヒグン)・昌徳宮(チャンドックン)・昌慶宮(チャンギョングン)などの宮殿の中にある水路も整備して水の通りを良くした。整備は4月15日まで計57日間続き、動員された人員は20万人あまりであった。この時の工事の過程や将来にすべきことを記録した『濬川事実』を編纂し、その後の浚渫の指針となるようにした。

   また、1773年6月、英祖は開川両岸に石塀を築いた。作業区間は3つに分けて進められ、両側の堤防に石を積み上げて丈夫にし、曲がりくねった水路をまっすぐな形に整えた。


SITEMAP 한국어 ENGLISH 中文简体 中文繁體 日本語